« 【序】日本革命体系草案〔教育・医学・経済〕【誠実とは・何故、言葉が伝わらないのか?】 | トップページ | 忍者砦通信「忍者武芸帳 影丸伝」「彼の様に生きたい。彼の様に滅びたい」 »

2016年5月22日 (日)

日本革命体系草案〔教育・医学・経済〕第一稿

副題:【誠実・何故、言葉が伝わらないのか、伝わっていかないのか】

第一草稿

誰も落ちこぼさない「学校」そして、テキストを作成する具体的で唯物論的独立の試みをするのが目的である。

しかし、今のところ「社会的問題意識」を共有する我らは、「少数派」であるのは確かである。

その分析の内外を問いながらも、更に、外部へと言葉をまず伝える事を考察しなくてはならないのであるが、

少し唐突に語るなら「人民のため」「労働者のため」「庶民のため」「非正規労働者のため」と述べながらも、伝わらない「アカデミズム」としての壁が、「ちきゅう座」にも、「マルクス主義」「マルクス自身」の中にも様々な弊害があり続けてきたわけでもある。

それでは、人間にとっての「原初」または、「初等教育」性とは何であるのかであるが、そこまで遡っていると日が暮れてしまうし、10代、20代、30代…それぞれに対して、同時の「原初」たるものは何であるのか?

その問いに答えるのが、『視覚言語論』であり、この『日本革命体系』の前景であり、

入門としての位置としたい欲求があると言うのであるが、

全体としては、

①『視覚言語論』入門的位置づけ

②本編たる『日本革命体系』(教育・医学・経済)

そして、③文学的助長としての『東京演義』(手取り足取りの大叙述体系)と言う展開を考えているのだが、

全く、怠惰な僕自身としては、「独り」で仕上げ気持ちがない、ただただ、「原初的」「草稿」としてしか「提示する」気がないと言うわけである。

しかし、それは、デカルトの『方法序説』も同様であり、スピノザ、カントの『三批判』においても変わらぬ「全てを語りつけせるはずがないから」と言う事の「原初」「哲学」としてあるに過ぎないのであり、

「論理学」としての「原初性」のみを提示するだけで、「推し量れる」ものがあると言う「個人」としての「内的」提示であったと言う事には、他ならない。

しかし、その個人主義を今は、問題としていないのは、「社会主義的段階の個人主義」「共同」を問題としているからであり、

まさに、これが、廣松の言う「共同主観性」であり、「事的世界観」そのものであると言う事になると言うわけであるだろう。

言葉の定義は、「個人的」にも可変していく事が可能であるが、決して、「個人的」なものだけであるものであるはずもないのは当然である。

また、逆に、論理的規則性と感性的許容範囲とは何かを明確にしていく事で整然とするものがあるが、ある種の「観念」の「混乱」がある故に、

【誠実・何故、言葉が伝わらないのか、伝わっていかないのか】

この問題があるからである。

双方の「正義」がぶつかり戦争になる場合がある理由であるのだが、

「平和主義」を貫き、第9条を、憲法を守りたいとしても、「聖戦」「自衛国家戦争」はありうると言う対立がもたげていると「瀬戸際」と言うわけである。

しかし、これさえもひも解けるのではないだろうか?

この結論は、最終結語たろうともまさに、「誠実」さの限界を問い出していくしかない、

更に、「核抑止」「原発」問題のカタストロフィーとして「元も子もなくさない」最大限の論理的道筋としての問いとしては、最初から選択肢は多くはない「賢明さ」そのものであることは誰でも辿り着くしかない結論と言えるからだ。

「エゴイズム」「自我」を排するのか?

「蜘蛛の糸」「羅生門」としての「人間地獄」として諦念するのか?

その問いへと「誠実」を尽くせることは可能であるのか?

これが、「人間の生涯」を貫く問いなのである。

しかし、あるものは言うだろう。

「われらは、わかっているのだ。しかし、破滅思考は、北朝鮮の方であるのだ」

しかし、本当にそうであるだろうか?

それが、まさに、

http://chikyuza.net/archives/62484

ここにもあり、至る所にある「ちきゅう座」的問いであったのだ。

この溝について、「誰にでもわかる」様に、まず、「論理学的道筋」を尽くして置こうというわけである。

では、具体的に、どの様にするのかをこれから語ろう。

第二草稿

われらは、見渡せるほどに、「少数派」である。

アベ政治の正反対でありながらも、その支持率が落ちない理由を何とするのか?

まずは、前回、提示した

矢部宏治氏の言葉に習うものを感じる。

「小さなパイで取り合っても仕方がない」

「知られていない事が問題なのである」、これである。

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/181723

しかし、まだまだストレートではなく「資本主義的」商品化としての小出し化、断片化の中にあり、「ちきゅう座」同様の「アカデミズム」「知識・教養化」としての限界もあるのは、

現代の沖縄の不合理に結びつけるのか?

これは、「北一輝と日本主義」から「日本会議」まで、そして、ゾルゲ事件から、ファシズム、更に、「真の共産主義運動」を問う事と同じ位相であり、〔歴史的断想〕と〔現代・現在〕の問いに「遠い隔たりがある様に」ネトウヨや大衆、労働者にまで感じられているギャップであり、教育格差さえ贅沢品であり、特権的とされる逆説を、ピケティさえ指摘している「情報格差」「情報弱者」たる根本的矛盾、逆説の中に晒されているのが、「民主主義」「社会主義」、そして、「共和制」的逆説ねじれ問題そのものでもあるからだ。

では、何をまず仕上げるべきであるのかが、「社会主義の地平」としての岩田昌征先生の苦心、ある意味「全方位的」展開の中に読み取れるものもあると言うわけであるが、

それ故の「曖昧さ」?は、「個人的難解さ」の域に留まってしまい、危険なものと問うなら「個人崇拝」的種子ともなり、資本主義的エリート主義たる方向と劣勢社会主義的個人崇拝そのものとして、アジアに留まらず、中東・アフリカでも至る所で見出されているものとなりかねないと言うわけでもある。

「蜘蛛の糸」「羅生門」地獄へと戻らない革命的で圧倒的なる「コミュニズムの地平」へと高める事を求めざる負えない。

「理性限界内での倫理社会」としての論理学、誠実の問いとなっているわけであるが、この考えの境地も十分難しいと思われるかもしれないが、

「噛み砕く長文」か「端的なるシンボリズム(象徴)か」と言う事になっていたとしても、分っている様でわかっていない「象徴」や「伝統」ではない、迂遠な人類史の苦悩を否定することは出来ず、「引き受けるしかない」のが、「社会主義的誠実」の問いであるとも言えるわけである。

精神は、この様なものであるが、「絶対精神」の一本道では毛頭ないと言うわけである。

少し助長に流れてしまったがまた繰り返し、「原初」に戻りながら説明を加えていきたいと考えている点でもあるのでこのままにしておこうと思う。

第三草稿

ホップ・ステップ・ジャンプ

世界の「現象学」的状況は、「天地創造」の様に一気には現れない。

我らの目的は、「資本主義」の弊害を指摘することから、超克することであるのだが、

ホップ(7月10日夏の参議院選挙)・ステップ(それ以後の展開)・ジャンプ(2ヵ年計画としてのマルクス生誕200年祭的資本主義史総括テキストの提示)と言う

「人間的なあまりに人間的な年代史を、チェスや囲碁として詰めていく様に緻密に連携することに他ならない。

われらは、「少数派」であるのだが、矢部宏治氏が指摘する様に、

「小さなパイで取り合っても仕方がない」

「知られていない事が問題なのである」を踏襲しながらも、

「資本主義的商品」「断片化」「切り売り」しない、「誠実」なる「テキスト」的完成へと

まさに、商品を超越した「共同事業」の場として、完成していく「場」を築く事である事はわかるのだが、いつも、〔方法論〕が問われているであろうと言う事である。

しかし、それは、「映画」制作でも、「白土三平」の漫画でも、共同の場はあり、事業としてあるのは、株式会社でも国家としての社会主義事業でも同じであり、それを、著作的共同の場から「誠実」のテキストとして鍛えられるにはどうしたら良いのか?

この問いに他ならないが、「事業」であるなら「資本主義」を越えられないのではないのか?

「国家」と「社会主義事業」の相違とは何か?

これが、レーニン主義的「国家消滅」の理想と現実の問いでもあったように感じるが、そんな難しい問題を解こうとしているわけではない。

目的を達する事、「戦争法」「TPP」そして、「不当なる格差・貧困」、アベ政治をまず、打ち破る事、そして、植草一秀氏、矢部宏治氏の述べるアメリカ隷従状況を何とするのか?

それを、「少数派」であるわれらから「外部」、若者、大衆、労働者、庶民にも伝える最初の砦たる誠実なる結集、「テキスト」としての結実を具体化しながら、呼び込んでいこうと言うことに他ならないが、もちろん、池上彰氏の様な量産、佐藤優氏的量産であっては意味をなさず、

逆に、われらが、「少数派」見通せるほどの幾人かでしか始められないゲバラ・カストロのキューバ革命的でありながら、武器を取るのではない、「著作的結実」と、出来るだけ多くの人の「社会参加」としての「誠実の論理学」の書として、展開しようとしているのだから安易なものではなく、対話、話し言葉を著作切り売りするのではないまた個人化する「独善」とするのではない例を示すだけで、チームワークを示すだけで、手段を越えて、目的を達する場を作ることが可能だと言う事である。

更に、簡単に言うなら、

「ちきゅう座読本テキスト」として、共同参加の場を作る事であり、

岩上安身氏のIWJは、多重チャンネルであり量産されている訳であるのだが、岩上安身氏本人が、追従する者がいない「独壇場」と述べていても、社会派ツイキャスは、500人前後の視聴者で留まっている「オレガー」状態にあり、打ち破れずにいると同時に、IWJの多重チャンネルがあっても、観る側の躰は、それぞれ一つであり、量に埋もれて「核心」に中々たどり着けず、大衆、労働者を置き去りにしてはいないだろうか?

この反省点を感じる事、誠実なるテキスト、「わかり易さ」は、幾らでも資本主義の模倣としての商品的切り売り、断片化せずとも「到達」出来ると言う「見切り」に到達する「学習会」「会議」として、「ちきゅう座」がまず、模範を見せ、誠実なる共同著作テキスト、読者の全てを参加者として、まさに、「少年ジャンプ」の読者ハガキの域にまで、聞き届けうる姿勢を持つこと、その様に、「言葉と誠実」を縦横無尽に使いこなすべく、「自我の超越」としての目的と手段の一致を示して見せていく事ではないだろうか?

誠実を示しても、原発事故や核戦争の資本主義カタストロフィーを抜け出せないかもしれない。

それであっても、「誠実と論理学」しか、人間、人類的叡智として、費やすべき道程はありえないのであり、めんどくさがらずやるしかないはずであるものそのものが、「誠実」そのものと言う事にもなると言う事である。

全ての人が、「原初」的に理解に足る誠実なるテキストとしての道筋と体系化を持ってこの事業、2ヵ年計画に当たるべきであり、もし、分らない人がいるなら何故、わからないのか?

そのQ&Aそのものが、「テキスト参加」としての「内容」そのものともなると言う事ではないだろうか?

第四草稿

カイジは、頭脳ゲームか心理ゲームか。

具体的にどの様な作品があり、繰り返し読むに足りるものであるのか?

具体的に仕上げながらやっていきたい。

« 【序】日本革命体系草案〔教育・医学・経済〕【誠実とは・何故、言葉が伝わらないのか?】 | トップページ | 忍者砦通信「忍者武芸帳 影丸伝」「彼の様に生きたい。彼の様に滅びたい」 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 日本革命体系草案〔教育・医学・経済〕第一稿:

« 【序】日本革命体系草案〔教育・医学・経済〕【誠実とは・何故、言葉が伝わらないのか?】 | トップページ | 忍者砦通信「忍者武芸帳 影丸伝」「彼の様に生きたい。彼の様に滅びたい」 »

フォト

最近の記事

無料ブログはココログ