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2016年6月19日 (日)

物象化・理論的実践・市場とスターリン批判の超克(廣松渉vs花崎 皋平としての日本思想の完追について)

(では、ちきゅう座復活を祝して新たな気持ちで第一寄稿を)

簡単に仕上げて置く。

間違っているなら間違っていると言ってほしいのだが、

また、どの部分がどの様に間違っているのか明確にすることによって前進するものもあり、

対話的助産術としての弁証法、共同主観性としての定立する論理の基礎もそこに出来ていくと言うわけである。

10代の頃の方が、アインシュタィンや相対性理論、量子力学などへの興味は難解であるが故に引き付けられているものもあっただろう。

しかし、やがて、大部分の人にとっては、仕事に追われ、日常の雑事、それこそ、育児などに追われていき、それが、トッドの言う「家族人類学」的あるのか、または、「日本会議」的な家族論であるのか後天的な知性の中で、経験の中でのみ、社会は、出来ていない事がわかってくるのである。

それ故に、「反知性」が、支配するとは言えない展開こそが、クロード・レヴィ=ストロースの構造主義「野性の思考」としてのサルトル的理性の限界の問いとしてもあり、遠くは、

トッドの「家族人類学」の発想にも通じていったのではないだろうか?

廣松渉は、正しい、しかし、人々の学習、知性がついて来られないのではないだろうか?

この問いがあったわけであるが、この発想こそが、問題を見誤った「後天的理性主義」「小手先の知性主義」となる西洋合理主義であると言う対立が、既に、サルトルと構造主義の中でも思想史的にも体現していた事に気が付かねばならない。

しかし、アインシュタィンや相対性理論への興味が、十代で途切れようとも、決して、その世界がなくなったわけではない様に、廣松哲学の問題も厳然とあるのであるが、

それが、スターリン主義的教条主義に陥らない為の論理学的完追、社会学的教育的完追があるとしたならどの様な形になるであろうかの問いが、まさに、花崎 皋平氏『マルクスにおける科学と哲学』中野英夫氏訳『マルクスへ帰れ』に共通する展開であるとまずは、対置しながらそれをひも解きたいとしている訳である。

さて、その心は。

察しの良い方であるならわかりそうなものであるとも思うのだが、敢えて、基本的な考え方を念を押すように書きだしてみたいと考える。

その全体像の展開は、時間の関係で今は、出来ないのだが、わかり易い原初だけを今は、粗描してその後の展開を待つことにしたいと思う。

決して、廣松哲学の否定が目的ではないし、全否定全肯定でもない、沈黙するのでもない問題点への「言及」としての補遺であり、スターリン主義的「教条」ではない、「人知」に理解できる認識論としての完追こそが、目的である事をまず、伝えて置かねばならないだろう。

では、この前提によって、内容の吟味に入る。

1.物象化論とは何か?

物象化Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%B1%A1%E5%8C%96

この説明が不完全である故に、「人知」としての認識論へと到達、解題されていない恨みがある故である。

決して、スターリン主義、主体思想(チェチェ)、毛沢東主義が、悪だけで成り立っていたわけではないだろう。

それは、鬼子であったとしても、マルクス思想の一部としてあったのだ。

また、廣松渉思想も同様であるのだが、今のままのアカデミズム的であったとしてもある種の独善的独我論的であるが故の「観念論」状態であるなら、限界があり、同じ閉塞の中にあるのではないだろうかと言う事になりえると言う事に他ならない。

人々が、「成る程、一見、難解に思えていたが、スターリン主義的教条を克服する目的と手段の一致がこの様にあったんだな」と膝を打つものが今の段階では到達していない学問的密教状態を作っているのが「具体的に」「物象化」されている現在であると言うわけである。

2.資本論、経済学上の「物象化」から逆哲学は如何にして可能か?

サルトル的理性の省察として、

「哲学を実存的おしゃべりのばとしてはならない」が構造主義側からあったわけであるが、

サルトル的には、「哲学は、科学の影」でしかないがあり、それぞれに、踏襲するものが現代にもあるのである。

一見、経済学的に描写されている資本論の根底にも、論理学があり、貫通している哲学があるのは、当然の事である。

では、労働や商品の物象化として一体、「人知」としての理解としての「認識論」は、如何に抽出されているのかの問題をまず、仕上げなくてはならないと言うわけである。

では、更に、わかり易く、「何故、物象化が必要であるのか」この問いが、唯物論の中にある事に戻らねばならない。

これは、とても、素朴でわかり易い哲学であると思うのであるが、どうであろうか?

《全てが、物、身体ではないからである》

唯物論者であるから、「魂」や「心」はない、さびとかびの違いなどないなどと言う人はいないだろう。

使える商品価値に加工する労働以前に、「感謝の気持ちを<物象化>してプレゼントを贈る>などの意味で、本来形のないものを形に変える過程こそが、「物象化」の本質ではないのだろうか?

それは、かならずしも、物としてのプレゼントでなければならないわけではないのは、「感謝の気持ち」を伝える「言葉」でも良いのであり、物ではないものを、「物象化」して示してゆく展開としての、質の転換から量の転換としての「妥当性」の問題として、それは、「搾取」であるのか、「資本の蓄積」であるのか?

その問題となっている、それ以上でも以下でもないのではないだろうか?

3.

上記が、違うと言うなら、「人知」としての認識論的説明として不能に思えるのだが、

商品は、「価格」として、物象化されているのだが、アマゾンなどは、格安で、1800円引きで売ってくれたり定価破壊をしているが故に、実際の書店不況などもあり、出版物不況も招いている場合があるわけであるが、実際は、目分量的なその価格の関係が問題ではない。

まずは、商品の質、図書の質としての問題として、労働の物象化があるのであり、「形のないものがどの様に形のあるものとされているのか」その中で、量規定としての「度合」があると言うわけである。

「何故、廣松思想が、大衆に理解されていないのか、それは、難し過ぎるからか、相対性理論の哲学であるからか」

「しかし、STAP細胞も相対性理論も科学は、過程が分からずとも役に立つなら意味を持つが、政治や民主主義は、理解を前提とし、ましてや、マルクス主義であるなら労働者全体に対して、人知としての認識論としての定礎である必要がある、それ以外は、スターリン主義的教条主義に留まる」と言うわけである。

カント的先験的理性に訴えるのか構造主義的「野性の思考」トッド家族人類学的完追として社会主義の地平を問うのか?

これに辿り着くだろうと言うのが、僕にとってのわかり易さの展開となっていると言うわけである。

繰り返し述べる教条官僚答弁は、なんら、「弁証法」ではない。

花崎 皋平氏のアルチュセール批判、廣松渉批判は、その様な意味の様に僕は、まず、押さえている。

ルネサンス研定例研究会のお知らせ

http://chikyuza.net/archives/63441

こちらの「アルチュセール」には、時間の関係で出席かなわなかった訳であるのだが、「理論的実践」についても既に、花崎 皋平氏は、本書にて粗描を完成してた様に思える。

総会 : 【武藤一羊さん『戦後レジームと憲法平和主義』刊行記念シンポジウム】 

http://www.peoples-plan.org/jp/modules/news/article.php?storyid=504

今月11日に、花崎 皋平氏に直接この問題点を聴く事も出来たのだが、ちきゅう座にも告知が掲載されなかった故に、知らなかった行けなかった事が誠に残念でならない。

またの機会がまだないわけではない。

結論だけを先取りするなら、はやり、「疎外論にとって代わる物象化論の位置づけはない」

「アルチュセールの認識論的切断」としての初期マル発見カルチャーショック拒絶の迷妄であるとする論理として、逆に、サルトルの言う「哲学は科学の影でしかない」

「経済学批判と物象化論」質と量、度量を完追するのが、当面の目的へと変わる訳である。

難しから廣松科学哲学が、世間の興味を引かないわけではない、難しいが故に、逆に相対性理論への興味の段階は、10代に具体的にある「生態学」的人間の在り方があるからである。

孤島にある事、離れ小島となっている事には別な原因にあると考えるべきである。

その言説が、教条的でありスターリン主義的超克に到達していないが故に、同じ人しか「信者」的に集められない、突破口の「弁証法」が成立していない故である。

だからと言いて、マルクス主義も事的世界観、場の哲学を捨てる立場が僕自身の選択肢でもない事はお分かりの範囲であると感じる。

4.市場経済と物象化論の完追の問題

1.16現代史研:その後の質疑応答

http://chikyuza.net/archives/59627

「市場機構を普遍の制度として出発する以上、労働力商品化の止揚を宣揚するのは理路が通らないのではないでしょうか。」

認識論の域を越えて、この問題を解決するのが目的であるのだが、そこまで語るなら、やはり、資本論と同じ長さが必要となりそうなので、今は、出来ない。

だが、「物象化論としての教条、イデア論」を真物象化論としての「包括」としての完追としていくなら「人知」としての「資本論(物象化論)批判」の地平としての定礎に届くと言う理解でもある。

この問題は、どの様に語ろうとも真物象化論としては、揺るがない様に感じる。

語り変えは、幾つも可能であり、繰り返し同じ結論へ結びつくものだけが「真」であると言う構図を作る事である。

物象化とは、「既在」としての時間的過去に属する「固定化」とその分析である。

人が、人であるのは、誰にとっても、同じであり、一瞬目の錯覚で、小枝に見えたり、カーテンの影で見えなかったりしてもそれは、ただの錯視でしかなく、共同主観的真でもなんでもないだろう。

しかし、「その研究会は、立ち見が出るほどに盛況であり喝采を受けていた」となれば、「人」と「部屋」「教室」が、「既在」「混在」として、実践的でもあり、何が人であり環境であるのか労働や商品質、価値であるのか「物象化されたる既在として完追され一致していたと言う事になるのではないだろうか?

目的と手段の一致、事、場、そして、物象化としての完追としての一致であり、「違和」があるうちは、共同主観性でも事でもない、エリート主義や教条官僚主義を排してこそのマルクス主義との一致であるなら疎外論と物象化論の一致が問題であり、「物象化論のイデア」が問題ではないと言う転換の問題が必ず問われねばならないと言う前提となりそうなものである。

無垢な大衆、労働者を相手に語る、花崎 皋平氏20世紀の3つの活気「人知認識論」わかり易さ。

更に、中野訳『マルクスへ帰れ』における5つのマルクス主義内部のアソシエーション対立の分析へと再び戻されると言う事ではないだろうか?

更に、わかり易く、そして、興味深いものとして万人の思想の地平へと到達する実践論的理論を仕上げていく、2年間の「詰将棋」

マルクス生誕200年祭の人類史的チャンスをものにしていきたいものである。

〔備考〕

反省

http://chikyuza.net/archives/57396

付録:画像集

http://akiratakeda2001.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-da2b.html

今月は、あとこちらに参加を予定している。みなさんも是非いらっしゃって下さい。

社会主義理論学会第71回研究会

http://chikyuza.net/archives/63489

では、2年後、最大の理論的実践の協働として結集していきましょう!

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