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2016年7月12日 (火)

ちきゅう座よ、平成日本よ何処へ往く(知名度とインターネット広報の限界について)

今回の主題は、簡単に述べるなら知名度と文化性についてです。

実践と民主主義本質論。

箇条書き。

①澤藤統一郎先生がちきゅう座の道しるべ

力の限り毎日書いているのを感じ、つい明日はどんな話題だろうと予告調和的に覗いてみたいと思ったりしている。

不定期更新の僕もちきゅう座掲載の前に、自身のブログに掲載保存しているのだが、どの様に読まれているのか?その心の動きまでは読み取れるものではない。

自身の為にまずは、書いている。

そして、一人でも二人でも周辺の同じ問題意識の人がいるなら対話を助産術的最初の展開をここからでも始めようと思う。

それが、実践の種子であり、理論的実践としての足掛かりであると言うわけだ。

てこの原理の如く、アルキメデスの如く基点をと言うのは既に幾度も書いたきた事である。

実践的に一歩でも二歩でも踏み出したいとするのがマルクスの中にも読み取れるテーゼであるのだが、道なき未知を切り開くとはどの様な事であるのか?

歴史の歯車は、『光る風』で描かれている様に逆転していく要素もあるのだろうか?

過去、現在、未来、近未来SFの中で、文学をも凌駕する完成度を示していて、三分の二改憲勢力と言う嘔吐するような情報が、そのまま重なり合ってしまっている気持ち悪さをどうする事も出来ない問題点として突き刺さってしまっているわけである。

その参議院選挙から一日が過ぎ去り、都知事選公示前の空白が今でもある。

争点隠しの投稿も既にちきゅう座にはある。

http://chikyuza.net/archives/64407

最後の一戦は国民投票での攻防に - 参院選で改憲勢力が3分の2を獲得 -

http://chikyuza.net/archives/64454

追い詰められているジレンマがないわけではないが全てが絶望的なわけでもない。

②参議院選挙とインターネット広報の限界について

この省察こそが、今回書きたい中心でもある。

不正選挙陰謀論には組しないのだが、明示していきたい気持ちはある。

しかし、十分、山本太郎議員の大企業批判、福島みずほ議員のパナマ文書追及も日本共産党の論理展開も欧州的社会民主主義理論を基底としている共通性があると思うのだが、それを歴史主題的に解明する事を許さないのは、日本人の近代的知性、歴史主義への問いを許さない教育上の不備でもあり、

ハイデガー的な「根源的」問いを許さない刹那としての人間の生涯とは何か?

更に、簡単に表現するなら「歴史的人間」と「日常的人間」の対立とでも言うべきものであるだろうか?

それは、絶望的関わりであり、偏見と誤解の中で成り立ってもいるのだろう。

例えば、巨人、永六輔氏の生涯とは何であったかと言う時の「歴史的(時代的)人間像」と「日常的人間=身体」との関わりとして何とするのか?

具体的に解題される問いでもあろうからだ。

「大河の一滴」であろうとも、孫悟空がお釈迦様の手のひらを越えられないとしても今、民主主義の覚醒の中での人の生涯を越えたる「日常性としての同時代性」

参議院選挙の中での知性の広がりにもそれがあるのであり、ここで、省察に値するのは、三宅洋平氏の都知事選前哨戦とも思われる首都圏選挙区更にど真ん中の「近代性」「覚醒」としての合理性が何処にあったのかの問いとして省察されねばならないと言う事である。

圧倒的に、ツイキャス選挙フェスは、無党派層の支持を集めていたかのように思えていた。

しかし、その仮想は、巨大な人間ピラミッドには届かないものがある関わりである。

大企業、組合、組織票と言う巨大な現代ピラミッドと巨大メディア(知名度)と言う壁が、民主主義を制覇する関わりであり、インターネットと言う仮想空間は、狭義の世界である事を暴露したのではないだろうか?

山本太郎氏、三宅洋平氏の論理は、どの様な広報限界を持っていたのだろうか?

ツイキャス閲覧数問題と限界。

だが、それ以上に、マルクス主義理論を正当性の中で展開せんとする純粋なる学生運動、社会運動の担い手、ちきゅう座的にも、左派的にも近さを持っていたであろう本末候補扱いをされている支持数と理論の限界性の問題としての民主主義の問題である。

まだ、立候補出来るだけ良いと言えるのかも知れない。

それ以上に、埋没しているかも知れないアカデミズム学習会の我らもあるやも知れないからだ。

その精神は、「わかる人だけがわかればよい」と言うかつてのヘビーメタルにも似ているし、「大人はわかってくれない」のフランソワ・トリュフォー、ベルトルッチ監督に、「衛星の様に内部からだけ光を放っている」と称されたゴダール映画の知性にも似ている。

この例も繰り返し述べているものの範囲でもある。

この巨大な現代ピラミッドの中で、インターネット広報も狭い世界、独房性があるのは、「知名度」と言う巨大メディアとの関係の中で位置づけられているわけであり、

硬直化した物象化されたる「日本共産党」像と再び、三度知らないと言う我ら現代ユダを演じる役柄とされたる「アソシエーション(自由連合)」左派=リベラルとしての「心の孤島」「収容所群島」化されたる現状としての問いであり、少数派でも良い、「真実」そして、「歴史的マルクス」「資本主義=経済学批判」を問い、仕上げていきたいとする広がりとは何かというのが、「ちきゅう座的孤独であり、孤立である」これは何かの問いから始める意味である。

三宅洋平氏でも及ばなかった、そして、新しい労働運動を標榜したる本末候補以下の学習会であるのは全く本意ではないだろう。

しかし、現実を分析しない唯物論はあり得ない。

その問いの中で、「言葉」を展開する。

更に、先取りするなら、その孤独、孤島、収容所群島たらされているのは、

「知名度」と「民主主義的階層性と言う文化性」によって押し込まられている問題であると言う事。

共に努力する仲間を集いたい。

何が欠如しているのかをまずは、言い当てたい。

ただ、会費やカンパを求められるのは嫌だ。

買って喜ばれる真の商品、価値、労働を位置づけていきたい。

この問いへの「説明責任」は、三宅洋平氏、そして、本末候補、更に、ちきゅう座学習会の中で、どの様に違っているのかの整理をしていきたいと言う事でしかない。

③たんぽぽ舎と植草一秀「知られざる真実」について

たんぽぽ舎

http://www.tanpoposya.net/main/index.php?id=202

新ホームページ

http://www.tanpoposya.com/

「知られざる真実」

http://uekusak.cocolog-nifty.com/

「阿修羅掲示板」

http://www.asyura2.com/

これまでも掲載してきた様に、僕にとっての指針として、ちきゅう座の澤藤統一郎先生、または、リベラル21の様に、知的左派的体制抵抗知性的指針となっているのが、上記の頁となっている。

ちきゅう座が新しく開始されて、「たんぽぽ舎」メールが載らなくなった理由も気にかかるが、「独立」していったのか?独立したなら島宇宙的にリンクして、関連付けて欲しいものもあるのだが、まだまだ技術的にも未熟なわれらでもあるので、「あるがまま」から開始するしかない要素もある。

問題は、野党共闘、アソシエーション連携としての協働の在り方であり、結集として如何にあるのか?

少数であっても対話が成り立っているのかの問いであり、真に結集して、支持としての「票読みの数理学」としての民主主義原理に到達して、理論武装できているのか?

その問いを具体的に、実践的に、眼に見える都知事選、東京事変としての共闘足りえているのか?

その具体性に今は、関わっているのだろう。

昨日の錯綜したる情報においては、

宇都宮けんじ氏の出馬会見、

古賀茂明氏、上杉隆氏、鳥越俊太郎氏の名が、野党共闘側として浮かび上がっているが、これでは、与党以上の分裂選挙であり、参議院選挙の二の前の未熟さの中で手慣れているとは言えない状態であり、同じあやまち要素も感じられている。

具体的現状分析から展開するのがわかり易いものであるだろう。

四者の対話を望まない訳にはいかない。

オレガー資本主義を抜け出す教訓と理論とは何であり、どの様に「共有」されるのかの問いである。

7・11ルネサンス研究所定例研究会―イタリア・オペライスタ群像(4)

http://chikyuza.net/archives/64412

現代中国を問う研究会から欧州マルクス主義、ネグリ主義を問う事、歴史から学ばねばならない。

しかし、歴史的断想ではなく、実践的理論である体系を目指すなら、三宅洋平氏、本末候補「新しい労働運動」そして、断想であるアカデミズムとしてのちきゅう座の「知名度」「文化性」としての現事実性への問いかけが今こそ必要でもあるのだ。

その聴衆を魅了する「歴史的人間」と「日常的人間」の弁証法は、参議院選挙から都知事選と言う具体的実践、「目に見える実践成果」にまで結びつける危急性として、真実践的に結び付ける事が出来るのか?

そのキーワードとしての「信頼性」としての「知名度」「文化性」とは本源的に何であるかを仕上げなくてはならないと言うわけである。

選挙は、人を選ぶのであるが、「政策」と言う論理を本来選ぶべきであり、植草一秀は、日本共産党をも交えたる「大同小異」を問い野党共闘、共通の敵に対する大前提を問いている。

内ゲバが得策ではないのは、岩上安身、矢部宏治対談の様に、「小さなパイ」を取り合うのではなく、をまず、票読みとしての数理学的知性理性としての共同へと連携でいるのかにもようやく遅かりしながら昭和の宿題を克服しつつある事、後戻りをしてはならないと言う事である。

では、この論理と実践をどの様に、狭義の世界であるのだが、インターネット活用として、論理広報が、公示から投票までに間に合えるのか、ちきゅう座の実践学習会と「知名度」「文化性」としての展開がどの段階にあるのかを、三宅洋平選挙フェス過信以上に、省察されねばならないだろう、助言を情報共有を、

それ以上の商品性、価値、労働方向性目的性として完成できるのか?

この問いに他ならない訳である。

少ない仲間であってもその面白さ、豊かさ、人生の意味を問い出して行ける。

「廣松思想の地平」「社会主義理論学会」然りであるが、決して、大衆にわかり易くないし、18歳選挙としての「文化人類学」「野性の思考」へと訴えられない超越にさらされている事をどうにかしなくてはならないと言う目の前の実践的問いとなっているのではないだろうか?

これを前提に、更に、社会主義、経済学批判の魅力の根底を先験的後天的「人知」に伝えられる解題として認識論から宇野弘蔵的イデオロギーを排したる「学の体系」は如何に可能か?これが、初期マルから経済学批判、断絶説ではない、「人知」としての「追完」としての問いとしたのが、前回の投稿となっている訳であるのだ。

まだまだ日本共産党が、九条、自衛隊の位置づけ説明しても説明しても理解されない要素がある。

それが、能力の差、努力の差と言うのが、資本主義、新自由主義の論理であるが、「文化人類学」「野性の思考」人間の本質としての平等性の問いを仕上げたいとしているのが、社会主義的段階から共産主義的段階であるのだが、「理解能力論」として問うのがわかり易いのではないだろうか?

この問いを仕上げていかねばならない。

⑥今ある遠近法(perspective)実践と理論、何をなすべきか?

当面は、上記の中で、ちきゅう座の「知名度」「文化性」から都知事選としての具体的関わりとして整理して、仕上げたいとするのが現在の位置づけである。

ここで、一端、また、筆を置きたいと思う。

キーワードは、「知名度」「文化性」であり、民主主義原理としての票読み数理学の完成としての理論的実践、実践的理論以下でも以上でもないと言う事でしかない。

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