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2016年7月17日 (日)

《国会から目が離せなくなった。》改憲争点そらし、三分の二、都知事選の攻防から柄谷行人、左派リベラルと日本共産党についてまでの体系化論

腐敗メディアが突如都知事選報道止めた背景

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-f8fc.html

東京都知事選での現実

http://chikyuza.net/archives/64594

余談の許さない状態が続いている。

改憲勢力3分の2以後の「都知事選」は重要な選挙となっている事を植草一秀ブログは伝えている。

それに対して、都知事と都議会の対立について後者は伝えているのがわかる。

沖縄は、現職大臣を破り、自民党を追い出し、鹿児島県知事選挙は、三反園 訓氏が制している。それに、都知事選も続かねばならない状態である。

後がない状態であり、選挙を落とす事が出来ず、何故、国民に、都民に伝わらない状態が続いて来たかの分析を徹底的にしなくてはならない段階に来てしまったと言う事だ。

詰将棋の様に無駄な動きが出来ない段階に来ているだろう。

国民構造の分析をしなくてはならない事を感じている。

投票したくとも出来ない人々も確実に存在している事が理解できている。それは、長期入院している者や認知症、介護を必要としている人々であるが、何故、その様な状況に追い込まれているのか?

この分析は、重要なものの様に感じられている。

これまで語ってきた物象化論しかり、柄谷行人氏の左派支柱性、日本の自由連合的左派とは何であったのかの問いとその超克の問題であり、経済学、宇野理論に至るまで置き去りにされた「経済学批判」「資本主義研究・歴史研究」の位置づけがそれであるが、

実際は、人間に伝えるためであるのだから思想、哲学として問いただすとしても、経済学理論として、レギュラシオン理論以上、資本主義批判としての対案を議論し続けるとしてもその「経験的」「物象化」そのものが、後天的なものであり、学ばれた内容の教条となっているのではないかというのが、前回までの僕自身の主張であり、

今、やらねばならない事は、文化人類学、「野性の思考」の民主主義としての問い直しであり、伝わらない論理(ロゴス)の限界としての日本列島の人口分布図、年齢分布図の中で、抜本的問い直しをする事ではないだろうか?

この問いである。

それは、「狂気の歴史」(1961年)「監獄の誕生」(1975年)で試みられた分析でもあり、それを、密閉された監獄や精神病棟に限定するのではなく、まさに、『医学的』に、認知症、TPP医学商品社会の危険性をも射程に含めながら「具体的な人間の一生の可能性」体系化しなくてはならない。

断片化してはならない、知識の断片化こそが、悪しき「物象化」であり、前回書いたように、

票読み数理学と言うよりも算術にも到達しない新しい労働運動、社会運動を理念的に称える参議院選挙泡末立候補者、それは、「新しい価値観」と称し、消費税を延期するアベ首相の論と同じく、新左翼、新しい価値、「新しい」と言うイデアを付加したる「物象化」ではないのか?

この問いとなっていたわけだ。

まだ、選挙を戦い、若干の支持者でも持てるだけ、ちきゅう座の学習会、断片化よりは、ましであると考える事も出来るのかも知れないと自己批判をも交えて書かせていただいた訳である。

ここから本来、足元から変えて行かねばならない対話と議論、学習会とその成果としての結晶として目に見える「テキスト化」これを鍛えていくには、どうすればよいのか?

Ⅰ.「断片化」「知識の物象化」批判

日本列島の文化、歴史、政治は、その雛型であり、都知事選たる、首都を支える近代的指導的都市そのものを考察する民主主義の弊害とは今、何を考えられているのだろうか?

それは、植草一秀ブログや醍醐聡先生の訴えている「メディア」の問題があるのだが、先験的なる「野性の思考」を通り越したる「医学的独占」の見地があり、それこそが、「認知症」問題であると言う構図である。

最初と終わりは、ぼんやりとしている。(ゲーテ『ウェルテル』)

自由放任、野性の思考の限界があり、「エミール」や教育論もあるのであるが、民主主義的近代的に今だに欠如している者とは何であるのか?

この問いを、具体的に、参議院選挙、争点隠しの危機に照らし出して分析するなら、

争点は、本当に隠されていたのか?自民党改憲案については繰り返し市民運動家の側は述べてきていたが、伝わらなかった。

それは、報道特集でも紹介された創価学会、婦人部が出版したと言う「わたしたちの平和憲法」と言う漫画にもある状況がなぜ起こるのかの問題でもあろう。

http://revolutio.exblog.jp/23301116/

投票と言う意思、理解、認知に対して、年代は、どの様に分布し、そして、どの様な外的要因によって選択されているのか?

教育的無知と認知症、投票行動に辿り着けない無党派層、無投票層分析の問いがいつも問題となっているが、具体的に仕上げながら、現代民主主義の限界とは何か?

議会主義や論理の限界とは何であるのか?

「ソクラテスの弁明」に戻りつつも、問い仕上げる必要を感じると言うわけである。

http://www.sapporoyu.org/modules/sy_course/index.php?id_course=510

知識の体系化と年齢分布図としての幸福感と論理教育の民主主義、メディア、人間関係について。

しかし、ある人は、言うだろう。争点は、自民党の改憲草案だけではなかった。

野党が信用できない状態であった。

経済問題が優先されたなどなどである。

広報の問題、メディア支配の問題、教育格差(ピケティ)そして、認知症としての医学上の段階まで根底を問い仕上げる必要が今あり、後天的経験的ではない、世界の存在構造としての問いに遡ることとなる。

この事の根底こそが、無投票層、無党派層の心理学の底にあるものでもあろうし、医学的身体に根差した社会学的分布図としての分析ともなるのではないだろうか?

人間不信、政党不信は何に根差しているのだろうか?

具体的に、参議院選挙が通り過ぎ、都知事選挙が迫っている真っ只中において、悠長なそもそも総研に戻っている暇はないとされるかも知れない。

6・23:中国リベラリズムの論客 栄剣氏 学術講演会

http://chikyuza.net/archives/63977

7・9:公開研究会 : 柄谷行人の「帝国」論と中国・習近平体制のゆくえ

http://chikyuza.net/archives/63980

柄谷行人と「帝国」論の隘路 ――ウィットフォーゲルとマルクスの間で(上)(中)(下)

http://chikyuza.net/archives/64493

http://chikyuza.net/archives/64536

http://chikyuza.net/archives/64621

中国問題と柄谷行人の位置づけについて野心的な文章が続いているので、こちらを土台として、更に、わかり易く広報しながら展開したい野心もあるのであるが、

閉ざされた正義論―トッド理論の暗点について

http://chikyuza.net/archives/62869

二項対立図式の罠 

http://chikyuza.net/archives/64394

語りたいと思いながら置き去りにしてきた問題は、こちらにもある。

左翼、リベラル、アソシエーションと日本共産党、政党政治の立て直し、更に、

究極の二項対立である、先験的と後天的物象化論の構図として、哲学、政治学、経済学を下げるとしたならどうなるのかの問いとなる。

出来るだけわかり易く、そして、「理論的実践」(アルチュセール)ではなく、実践的で、具体的な追完は、如何にして可能かの問いであり、その都度、戻らねばならない問いとしての「存在と時間」が問われているわけであり、

何故、政治学的争点が伝わらないのか?この問いを仕上げる事を考えないわけにはいかない訳である。

左翼とは何か?それも、今では、曖昧な概念として置き去りにされている。

日本共産党の綱領問題も現代選挙において取りだたされているが、伝わり切れていないであろう。

労働者や技術者が、その哲理、アカデミズムにどこまで携われるのか?池上彰解説的捨象は、再び、争点隠し性の限界も持っているだろう。

更に、左翼著作、市民運動、脱原発本も商品としての断片性に留まる場合もある事を越え出て、人間不信、政党不信、身体的病理性としての認知症、「狂気の歴史」「監獄の誕生」としての後天性物象化限界として問い直すのが、ここでの主題となっていると言う事であるのだ。

知識の階層化、格差、多様性とは何であり、認められる無意識としての社会学的問いは如何にあるのか?

これを、仕上げたいとするのが、前回と前々回の展開だった訳であるのだが、その知識体系の物象化に対して、「先験性(ア・プリオリ)」とは、どの様に仕上げられるべきであるのか?

この様に、整理したいわけであるのだが、そもそもカント哲学そのものが、先験的後天的整理は、形而上学的限界も持っているであろうし、疑念は、保留されてきているのも事実でもあるだろう。

では、この全体において、次回から、具体的に、石井知章先生の柄谷行人論の分析に入り、柄谷批判で結語するのではなく、では、マルクスを今、どの様に位置づけるべきであるのか?

日本思想の追完としての展開へと踏み出せたならと考えずにいられないと言うわけである。

他のみなさんでも同じ興味を持つ方がちきゅう座に多いと思うのであるが、オリジナル思想としてではなく、一般性理論として、等級的にまずは、理解できるものにしたい野心を持たないわけにはいかない。

学習会を是非、断片化ではなく体系化、連続性として、展開しつつ、2018年マルクス200年生誕祭としての結集、その機会としてのチャンスを逃さない、詰将棋、「共同主観性」「事的世界観」「存在と意味」としての日本思想の総覧を希求せざるおえない。

その図式は、とてもわかり易い当面の目標であろうし、「伝える」「理解する」「社会化する」ことそのものであり、目的と手段の一致であると考えているのであるがどうであるだろうか?

また、長くなったので、この辺でいったん区切り次回に継続出来て行けたならと考えている。

【週刊読書人から紹介】

ドゥルーズ+ガタリ

<アンチ・オイディプス>入門講座

全六回です。

会場:読書人スタジオ

(新宿区矢来町109(株)読書人内

日時:毎月第2土曜日)

(開場17:45、講義18:00~20:00)

講師:仲正昌樹

受講料:各回1000円

【日程/全6回)

2016年:9月10日、10月8日、11月12日、12月10日

2017年:1月14日、2月11日(休日)

問い合わせ、(株)読書人 講義係 03-3260-5791

※ご予約以外の問い合わせは応じかねます。

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