【草稿哲学ノート】自省論(自省べきはちきゅう座・左翼・リベラルではないだろうか?)
(この一文は、投稿原稿以前に下書きしたものです。重複する内容があるのをお詫びします)
都知事選(最終回):敗因を外に求め、自省できない革新に未来はない
http://chikyuza.net/archives/65119
今回都知事選における野党統一候補擁立の迷走と問題点
http://chikyuza.net/archives/65136
とても残念なのは、人工知能の時代にあって何故、この位の在り方が、予測できなかったのだろうか?
この問いがある事だ。
孫崎享氏が、既に、27日の段階で、ツイッターしていて予測出来ていた段階であるのだが、それでも遅すぎるのも確かである。
孫崎、舛添辞任時点で米国は小池に決めていた。しつこい舛添叩きも鳥越叩きも、小池劇場も全てシナリオである。 ポスト米英時代
http://www.asyura2.com/16/cult16/msg/503.html
「これほど低劣な都知事選を見たことがない。:金子勝氏」 赤かぶ
http://www.asyura2.com/16/senkyo210/msg/431.html
さて、ここで、本当の意味で考えねばならない事とは何であるのか書き出していきたい。
醍醐聡先生が、「自省論」を上記の様に、展開しているのだが、本当の意味で、自省せねばならないのは、醍醐先生であり、左翼、革新、リベラルを自称している学者、文化人ではないだろうか?
この論を展開してみたいと思う。
まさに、自分を省みなくては意味がないだろうからだ。
しかし、野党共闘や民進党の直接の当事者ではないのだからという声が聞こえてきそうだがこれが最初の間違いである事を少し小難しいかも知れないが展開してみたいと考えている。
人工知能が、発達し、繰り返し同じあやまちの中にあるのだが、何故、シュミレーションが生かせずに来ているのかの問題がこれである。
野党共闘の一本化、自民党候補の分裂においてこれは、絶好のチャンスであると胡座をかいていた結果がこの様なものとなっていたという事であるからだ。
しかし、それであるならどうすれば良かったのか?
鳥越氏の動向は、見守っていたとしても、本来は、小池百合子選挙を偵察して分析する連携を持つべきであったという事がまずある。
百合子グリーン作戦があり、ガラスの仮面の作者が応援している展開を当選後に、放映されているのを見ているのでは、僕自身も遅かったと言う事である。
更に、選挙制度そのものの不合理についてもちきゅう座にて幾度も取り上げられているのだが、大統領的権限を持つ都知事のあり方は、「独裁者」を選び出す方法論であり、民主主義的ではない事を同時に突きつけていくのが、左派理論でなくてはならないのであり、それが、醍醐先生や紅林さんの自省の場としてありはしないかと言うのが、ここでの展開となっているという訳である。
小選挙区制然りであるが、そこまで、今は、遡っていられないから鳥越批判に集中すると言う事になりかねないのかも知れないが、ツイッター上で溢れている鳥越批判、宇都宮批判も含めて、頂けないものが多過ぎるし、紅林さんの鳥越批判宇都宮擁護も同様である。
鳥越氏のジャーナリズム、岩上安身さんとの対談などの模索の在り方を更に、応援しつつ、対話を活性化していく事で、この「ソクラテスの弁明」としての民主主義の死は、避けられたのであり、今後に更に繋げなくてはならない。
百万人の覚醒した都民は、厳然といる事実から戦いを継続していかねばならないからだ。
都知事選、力強いご支援をいただいた皆様方に改めて深く感謝。全力で闘われた鳥越俊太郎さんに心から敬意を表したい。 小沢一郎
« わかり易さどこまで進んだか? | トップページ | ネトウヨ工作員は何に動かされているのか? »
醍醐氏は偉そうに批判していますが、
自分の批判を受け入れない人間です。
自分を分かっていないから
激しい言葉で裁くのが習慣です。
最低な人間です。
投稿: 左翼にうんざり | 2017年4月12日 (水) 22時51分