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2016年8月 9日 (火)

花崎皋平著作集の可能性と中野@貴州仕事論について

(と言う訳で、現在、復元中。6:00たぬき御膳ツイキャス高江を観ながら、一応また投稿す。)

 はじめに

前回の自省論(3日)投稿掲載から常連である「テント日誌」「たんぽぽ舎」(5日)(7日)と決して「交流の広場」の更新は、早いペースではない。

パロディ:タケシ風「都知事選感想」

http://chikyuza.net/archives/65243

都知事選(最終回):敗因を外に求め、自省できない革新に未来はない 【追伸】(2016年8月4日)

http://chikyuza.net/archives/65250

都知事選については、上記の二つが挟まれていた。

その後、沈黙を守る鳥越俊太郎氏と

宇都宮けんじ氏の都知事選論があった。

「日本の市民運動はもっと利口になれ」

http://www.huffingtonpost.jp/2016/08/04/utsunomiya-kenji-interview_n_11335252.html

ツイッターの方で、宇都宮さんの語っているのは「全否定」でしかないの一文があり、感心させられ同意するものがあった。探し出してもう一度確認しようと思ったのだが、何しろ分量に埋もれてしまいたどり着けないので提示が出来ない。

さて、民主主義の勝手な第一原理として僕自身がこれまで上げてきたものは、

「全ての生者に訴える事」であったのだが、当然の事、死者には訴えられるはずはないとしても、「マルクスへ帰れ」「レーニンへ帰れ」は、誰に、問いかけられているとしても生者以上に、死者の方が、多くの言葉を保有していたり、ウェイト(比重)を持っている場合は、至る所にあるのも確かである。

鳥越俊太郎氏の問題に「老い」とは何か?

この問題があったように思える。ボーヴォワールの『老い』人間存在の生態学的生涯とは何か?この問いは、既に、繰り返し存在していたのであるが、

「民主主義的二項対立として、生者、死者区分」より語る事において、老い、弱者性、癌サバイバー、認知症サバイバーを排斥してはならない、「学んでよし」地域都政としての自省と連帯を前回、自省論は、主題としていた訳である。

大統領権限にも匹敵する独裁的椅子取りゲームたる反民主主義的要素を排する地平を明らかにする為にも宇都宮批判をするのではないのだが、鳥越擁護としての転回こそが、最重要ではないのだろうか?

この論であった訳である。

1.老いの問題と『ソクラテスの弁明』(哲学的根源性と民主主義について)

老いが、それぞれにどの様な意味を持っているのか?

その問いと失意を乗り越えて考察すべき点は、更に、花崎 皋平氏にもあるのではないだろうか?

沖縄高江へ向かうのも良かったのだが、6月の吉祥寺を逃した事もあり、さっぽろ「遊」の方へ出向いてみた。

高江については、連日、岩上安身IWJ、福島みずほ、山本太郎ツイキャス、その他24時間体制にて巨大メディアではないが、観る気がある人には、観る事が出来る「ちきゅう座」と同じ、星の数ほどあるインターネット上の小宇宙の一部を形作っている事が伺えるのだが、まだこれそのものが、「価値」でも、「商品」でもない段階であろう。

「商品」が何ほどのものであるのか?

その問いもあるわけであっても、眼に見えているものの森羅万象から抽出されたる「意味」と「価値」は、マルクス、廣松渉に至るまで踏襲されたる問題意識でもあるのだからその都度、具象化して対峙させつつ話を進めなくてはならない関係を持たざる負えないであろう。

この部分における花崎 皋平氏関連のリンクは、以下のようなものである。

【武藤一羊さん『戦後レジームと憲法平和主義』刊行記念シンポジウム】

http://www.peoples-plan.org/jp/modules/news/article.php?storyid=504

プラトン『ソクラテスの弁明』を読む 5/11(水)~

http://www.sapporoyu.org/modules/sy_course/index.php?id_course=510

さっぽろ自由学校「遊」Wikipedia

8月3日の一回だけであったが、参加が適った。

今更、ソクラテス、プラトン、アリストテレス?の問いもあるのだが、哲学の基本でもあり、民主主義論、中野@貴州の言うネトウヨ(ソフィスト、詭弁家)の深層心理的問題点とは何か、そのそもそも論的問いがここにあった様に感じる。

「人を殺したなら死刑はあるかも知れないが何故、ソクラテスの死刑は判決されたのか」

「現在でも日の丸、国家斉唱の義務化があるのと同じであり、教員でいられなくなるなら職業としての(排斥性)、死刑として理解が出来る」

その当時の神は、ゼウスであるが、今は、神話としてあっても、信者を持たない宗教の中で、神を冒涜するとは何であるのか?

この事の根本的教材として「プラトン全集」の中でも代表的、文学的古典でもあろう「ソクラテスの弁明」の位置づけとしての展開となるのであるが、

同じ、民主主義論の展開として、ルソー『社会契約論』講座としていきたい意向まで聴いた。

遊主催者側の弁としては、「一定世代しか集まらない問題点」「SEALDsの新しさはあるがまだまだ全体の若者層からは浮いているのではないか?」

ロックスターには簡単にはなりえない。ライブ会場へ足を運ぶか、知識欲、対話空間としての2時間を選択するのか?

かつての若死にしたロックスター、ジミーヘンドリックス、ジョンレノン、ドアーズのモリソン、尾崎豊、松田優作などなどを復元したい欲求もあるもののあれもこれも出来るはずもなく、ローリングストーンズ、エアロスミス、リッチーブラックモアなどなども老いの問題を共有して今あるのを感じている『同時代ゲーム』と言う訳である。

日山起彦先生も述べていたが、「もっと編集者は、吉本隆明・廣松渉・柄谷行人対談など企画すべきだったんだ」と述べられていた様に、まだ遅くはない、「大江健三郎・瀬戸内寂聴・花崎 皋平対談などの生者の文学、哲学、ルネサンス(文芸復興)を企画すべきではないのかと感じているが、ドイツ・イデオロギー翻訳以後の社会運動彷徨としての

花崎 皋平著作集的編纂を、ヘーゲル弟子筋で、再編成するのでなくては、「価値」「商品」として、市場経済、資本主義対抗としても具象化出来ない段階ではないだろうか?

生きている内にしなくてはならない問題は、鳥越俊太郎氏、花崎 皋平氏、広島被爆者問題から大江健三郎氏の仕事までを接合して語り継がねばならない仕事がまだまだある様に感じていると言う事である。

資本主義も市場経済も「悪しき意味でも物象化論」的側面があり、最終唯物弁証法的決戦がこれではないのだろうかと僕自身は、考察する。

贅沢な時間としての「価値」「商品」として何が独立させる要素であるのか?

(ロックライブの時間から知的弁証術としての民主主義教養の場へ)

この問いを更に仕上げつつ、真の意味での市場原理、資本主義分析としての超克論としての問いを「足元」から具体的に問い直してみたいと言う訳であるのだが、9月に予定されている『マルクスへ帰れ』『レーニンへ帰れ』に辿り着けない地方都市の限界、基礎の基礎性としての関わりもある所以であるのだろうか?

急がば回れともあるが、複雑化する問題の中で何を到達点とするのか?

不毛な「どこから切っても金太郎飴」の様な輪廻転生的日常性は、「ちきゅう座」集会にあっても同じ悩みを持っているのは伺えているところであるだろう。

「理解する」「共同性」「啓蒙」「広報」そして、「共有する」とは何であるのかの問いがこれである。

ソクラテスの助算術、プラトン対話篇とヘーゲル弁証法までも繋がっているとしたらどの様に繋がっているのか?それを語り尽すにはどうすべきか?

しかし、この問いから、『マルクスにおける科学と哲学』を経て、『マルクスへ帰れ』『レーニンへ帰れ』に至るには更に、遠い問題があるのは、まさに、「老い」としての問題が横たわってもいるのではないかと思い至らざる負えない。

現代的問題点としてマルクス、ヘーゲルは今だに中心的課題であったとしても、それは、一喜一憂、西洋哲学史の素養、経済学的素養なしに飛び越えて理解できるのだろうか?

どこから、どこまで遡って問い出すべきかの問題がここにあった様に感じる。

世界史の構造』(岩波書店、2010年 / 岩波現代文庫、2015年)

『哲学の起源』(岩波書店、2012年)

  • 『帝国の構造 中心・周辺・亜周辺』(青土社、2014年)
  • 『憲法の無意識』(岩波新書、2016年)
  • 柄谷行人氏的にも一瞥できる知性とは何か?それを主題としている様に思える。

    アベ政治、改憲勢力3分の権力の独占独裁状況の資本主義官僚主義支配との戦い。

    貧困格差戦争法、高江の戦い、教育格差の中で、

    「マルクスはもう古い」「赤色」「反共」の段階で留まっている大衆やネトウヨ(詭弁家、ソフィスト)の知識と観念をごちゃまぜとしているギリシア民主主義と現代の民主主義における問題点に対して、

    さっぽろ自由学校「遊」としてもてこずっている様であり、「保守」「伝統的」範囲で、原初的問題に開かれた場から問題を立て直していきたいとしている苦心が見え隠れしていた様に思えた。

    「一定の世代しか訪れない問題点」そして、本来は、若い人に伝えたいとしているのだが、SEALDs的運動の広がりも限界を感じていると言う訳である。

    花崎皋平が花崎皋平を語る

    http://www.peoples-plan.org/jp/modules/open/index.php?content_id=17

    連続講座 花崎皋平〟を回顧する
    ――「三人称のわたし」はひらかれたか

    http://repository.seikei.ac.jp/dspace/bitstream/10928/748/1/asia-40_39-51.pdf#search='%E8%8A%B1%E5%B4%8E+%E7%9A%8B%E5%B9%B3'

    2.ヘーゲル講義的弟子筋、著作集編纂作業と中野@貴州さんの仕事未来史?可能性について

    『レーニンへ帰れ』P25から。

    このシリーズには現在4部ある。

    『マルクスへ帰れ』(1998~2013年)

    『レーニンへ帰れ』(2007年)

    『ハイデッガーへ帰れ』(2014年)

    『フーコーへ帰れ』(2015年)

    まだまだ翻訳の仕事も山積みな様です。

    機械的手分け作業に出来るものと創造的仕事、実践とは何か?

    「価値」「商品」への問いは続くと言う事でしょうか?

    アジア的専制のイデオロギーとしての法家思想(太字強調はWikipediaへリンクされています)

    http://revolutio.exblog.jp/23385607/

    9月が楽しみだな~。

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