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2016年9月 4日 (日)

本編(キッピス原理主義と植草一秀外伝)③

1.技術論、ツイッターと日の丸ネトウヨ的限界の本質とは?(老いについて)

権力、独占的収奪金融支配は、「法による支配」へとすり替えようとしている。

「法の支配」は、国民の無知化、家族封建制の体制により、「法権力による支配」へとすり替えられている違憲から改憲勢力3分の2の支配を何とするのか?

その広報を連帯してどの様にして、真の正当性を広めて、共和制としての体裁と知性を取り戻せるのかの問題である。

具体的には、インターネットの世界は、低俗なる技術支配の原初があり、2チャンネル時代より、便所の落書きとされてきている事、そして、技術は、老いの中で、閉じられている問題を具体的にどうするのかの問題にぶつかっているのではないだろうか?

長文は、若者もとっつき辛く読まれなく短絡的発想が、あちらこちらに見出されているが、見ても見ぬ振りするのが常となりつつある無知の支配が、大衆の偏重したる倫理観、歴史観、政治経済学法理論として今日がある事を問い出さねばならない。

ちきゅう座は、絶滅しつつある恐竜状態であるのか?

細菌戦争となっているツイッター文化を何とするのか?

ジャーナリズム、マスコミの偏重、争点そらしの討論番組、非議会主義的詭弁、ソフィスト状況があるとしたならどうするのか?

この問いとなっている訳である。

これについてのサンプルとしては、具体的に、技術論的問題としてもツイッター自体の中でも展開しているので、参照お願いしたいが、一見、不毛なものと映る可能性があり、それぞれの世代的問題、更に、老いの問題としても多角的に明らかにしていかねば、議論、対話、弁証法によって高めていく、広場に集まっていく結社の自由さえ破壊されている状況について更に、言及していかねばならないのであるだろう。

政策論争ではない民進党代表戦についての指摘は、あちらこちらに当然の様にあるのである。

自省していかねばならない。

民進党よ、代表選を理念創出の場に!

http://chikyuza.net/archives/65966

民進党は代表戦の前に基本公約明示すべき

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-0339.html

である。

2.収奪か搾取か。具体的商品と価値の展開

大黒弘慈『マルクスと贋金づくりたち』について

http://chikyuza.net/archives/65983

《実はこれがわからない。著者は「空間の広がり」とか「場としての価値」とかと述べています。サッパリワカラン!》

《でも、実はその「第三の概念」をすでにはっきり定義した方がいるのです。山口重克氏です。…私はこの定義に賛同しています。》

価値”概念”の迷妄

http://chikyuza.net/archives/66006

《商品貨幣説は最終的な破綻を来たしている。》

この問題については、そろそろしっかりした現代的結語を導き出して置きたいものだ。

宇野原理論については、実は、勉強不足もあって、積極的に関わってこなかった恨みもないわけではないのだが、商品貨幣説なるものが、『資本論』の中心的問題とはどうしても思えないのだが、古典経済学、アダムスミス研究の田中先生の現代史研究会があるので、是非、ここで、何とか結語へと対話をお願いしたいものだ。

第296回現代史研究会 テーマ: 「アダム・スミスの哲学的視座-ヒューム、アリストテレス、カントに関連させて」(仮題)

http://chikyuza.net/archives/65889

金本位時代の「金」は、確かに、価値の貨幣化であったとしても、価値形態論としての一万円札が、ダイヤや金としてそのものの商品的価値を保有しているとは思えない。

それは、誰でも知っている事だ。一万円が一万円の価値を持ち、1円が1円の価値と言うのは、量的約束事でしかない事は当然ではないだろうか?

そんな事を『資本論』は、基調としているのだろうか?

リカード、マルクスとしては、関連が顕著であるのだが、古典経済学としての商品と価値、貨幣の考え方として、何がスミス以来問われてきて、刷新されてきているのかを更に、わかり易くする必要があるだろう。

《マルクスだろうが宇野だろうがヘタレである、丸ごと吹っ飛ばせ位の破壊力あふれる
論者の登場を期待したい。》

これは、あり得ない、全てかゼロかの問いではなく、商品と価値との関係として何が残されているのかの問いは残されるのだからであり、自動車が、文庫本よりも高価であるのは、労働量に比例しているのか?などなど、貨幣論のみの抽出によって全体批判に変えて行く手法は、歴史学的にもよく、日の丸ネトウヨが行う断片化により、全体性への批判であったり、一部抽出する閉塞するイドラ経験論としてのナチズム的論理の転換をよく感じられている要素であるからだ。

ヘーゲルーマルクスとしては、弁証法、論理学、そして、体系としての総合知として意味を成すものであり、それを7、わかり易く丹念に、まさに、『現代資本論体系』として、共同で行っていかねばならない段階であり、その様な結集をしていくべきと考えているわけである。

〔是非、時間節約、徹底討議行えるように、スミスの貨幣論、商品論、価値論とはこうである、なんて、レジュメをお願いできたなら、誰にでも見えやすくなるのではないかと期待しているわけです〕

そして、資本主義フォーラムのカジノ資本主義論との関連も出てくるのではないでしょうか?

3.ちきゅう座の9月の対話、弁証法の具体的敷延と言う実践と理論。

商品化体系としての展開についての共同出版体系は、如何にして可能か?

張一兵「レーニンへ帰れ」出版記念会のご案内

http://chikyuza.net/archives/66000

レーニンだけでも大変なのだが、ヘーゲル概念論と同時に扱うのは、マルクスの前後として、取り扱う関連性として何か今回だけの別の意味があるのかな?

そう感じていたのですが、植草一秀先生のオールジャパンつながりでもある白井聡氏も参加されているので、期待が大きいですね。

植草一秀ブログの論理展開を日の丸ネトウヨにツイッターで紹介しているのですが、議論や政策論よりも、人格論、人治に戻る展開の中で、抵抗を持っているのがよく見受けられます。

それは、まさに、人治としての断片によって、法理としての政策論も民主主義も否定する在り方です。

それに対して、正しい論理学の骨格をわかり易く説明できる人のものを、かつて、ヘーゲルに対して、ヘーゲルの生徒たちが編纂したように、共同の場として、主張を後押し、補完する方法論としての共同主観性を広げて、数としての自民党、アベ政治に対抗する場を作るべきと考えないわけにはいかない段階です。

僕の民主主義の根幹は、死者の支配ではなく、生者の共同と言うのが、基本であり、鳥越俊太郎氏、宇都宮けんじ氏、花崎 皋平氏、そして、植草一秀先生までの補完関係としての啓蒙、広報から論理を共有していくところから実践具体化に結び付けていくべきであると言う事を生き本としている訳です。

花崎 皋平氏 ルソー『社会契約論』講義、10月からです。

是非、東京でも展開できると良いのですが、

具体的旅費や講義商品価値としてのちきゅう座的『人間臨終図巻』を結集できたなら解決できる様に感じているのです。

とにかく、明治大学に、ある一定の年代ばかりではなく、学生やフリーターまでを集められる《生き甲斐》を共有できる展開を出来たなら成功と言えるのではないでしょうか?

雑駁ではありますが、今回は、この辺で。

共生‐主義?

経済理論としての結集は如何にして可能か?(植草一秀理論の展開について)【前編】

http://chikyuza.net/archives/65720

暴力革命での政治刷新など誰も考えていない

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-fbe6.html

植草一秀先生、「共生重視主義」と原稿変えて下さったかな?

最近、発見した嬉しい「共生主義」的展開でした。

次回は、(植草一秀理論の展開について)【後編】かな?

原理主義外伝終り。

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